過去にアカデミー賞を受賞した監督が送り出す、名作ミュージカルの映画化。
最高の歌い手を揃え、VFXの技術者を揃え、楽曲を引っ提げて満を持して登場したものの、蓋を開けてみれば酷評の嵐。
VFXの気持ち悪さ、ストーリーのワケのわからなさなどに「悪い意味で」注目が集まりました。
この映画は、なぜこんな事態になってしまったのでしょうか。
1.「舞台」と「映画」は違うもの
私は一番問題があったのは、VFX ではなくカメラワークだと思います。
まずミュージカルというジャンルにおいて、敢えて「映画と舞台は全く違うもの」と認識している人は恐らく、ほとんどいません。
なぜなら、どちらも華やかな画面と美しい歌声という、同じ表現方法で構成がされているからです。
ですが実はこの2つの媒体は、得意としている伝え方が全く異なる媒体です。
この映画、めっっっちゃ舞台版を好きな人が、舞台に忠実に作ってしまった映画だと思うんですよ。
映画にあって舞台にないもの。
舞台にあって映画にないもの。
この映画では、それらの違いが考慮されていないのです。
2.観客に何をどうやって見せるのか
映画のカメラワークというのは、とても恣意的です。
進んでゆく世界の一部を監督の目で切り抜き、監督の視点を観客に与える。
対して舞台は、観客の視点を誘導するのは舞台上のキャストです。
歌う猫。歌う猫を見ている猫。さらにその猫を見ている猫。
3匹の猫がその場にいるとします。
舞台版であれば、舞台上の全員が何をしているのかがわかります。
今、注目すべき人物はその中の誰なのか?
それを観客にわからせることこそが、舞台の力です。
映画では、登場人物が向かい合うだけで全員の顔を見ることが難しくなる。
交代で顔を映したり、引きで撮ったり。
カメラが切り取ってみせる映画の「一瞬」に含まれる情報量は、圧倒的に舞台よりも少ないのです。
だから、ミュージカル映画は歌って踊るたびにストーリーが停滞する。
その結果「ストーリーが薄っすい」もしくは「ストーリーを別に入れたせいで尺がくそ長い」のどちらかになる。
「キャッツ」は元々ストーリーがなく、歌って踊ることがメインになっている作品です。
舞台上にあるはずの圧倒的な情報量を普遍的な映画用のカメラワークで切り取った結果、中身が何もなくなった。
あるはずの魅力を伝えきれなかったんだなと感じました。
素人がこんな提案おこがましいけど、カメラをぐるんぐるん回すとか、ズームしまくるとか、逆に長回しで一人を映し続けるとか、カメラの意思の見えづらい、特殊なカメラワークを新たに開発すべきだったんではないかなぁ…
頭から爪先までキャストが表現しているはずのダンスの真っ最中に、パッパパッパとカメラが切り替わるのマジで意味がわからん。そこを見せずに何がしたいの?
だから、最後のジュディデンチの唐突なデッドプールは、長回しで撮られてて正直一番良かったです。
周りの猫の聞いてる顔がずっと見えてる。それだよ多分必要なの。
「舞台のDVD化」でよく見る映像はアレだもの。
「映画」としてそれが正解かは知りませんが、少なくともカメラに余計な意思がないだけマシだったと思いました。
シーンとしては一番意味がわからんかったけど。
3.VFXで表現しようとしたものは?
でもまぁやっぱり、VFXもめちゃめちゃダメですわ。
猫が人間と違って愛らしい部分はどこか?
人が猫と違って表現できるものは何か?
方向性として、一体どこを目指してるのかわかりません。
可愛くない。賢くない。異形と化した人面猫たち。皿から水を飲むイアン・マッケラン、ただの毛の多いボケ老人じゃん
ちょっとこれは正気に返って欲しいんだけど、ナマの舞台と比べた時の映画の優位性として、映画はVFXをいくらでも使えるはずなんですよ。
クオリティの話ではありません。
むしろこのハイクオリティで人面猫ができるなら、全部猫にもできるじゃん。
人面猫にした意味は何なんだ、「舞台リスペクトで舞台に寄せた」?
C G ガ ン ガ ン に 使 っ て る だ ろ う が
CGで可能なはずの全部猫にせず、衣装で再現可能な舞台猫もやらなかった。
その理由、一体なんなんですか?
目指す場所が観客に伝わってない。
映画の欠点を「だって映画だから仕方ないじゃん」舞台の欠点を「だって舞台だから仕方ないじゃん」で放棄して生まれた、中途半端の結晶、ハイブリッドの悪夢というカンジでした。
「舞台を映画で魅せる」ための、変換の努力をマジで何ひとつしてない。
まぁでもミュージカル映画、大なり小なりこうですけどね。
たまたま阿鼻叫喚キメラになったけど、そもそも私は名作ミュージカル映画も楽曲や映像や雰囲気のよさで、騙し騙しヒットしてるだけだと思ってます。
ミュージカルと映画は相性最悪です。
「庇ってるのはミュージカル経験者のみ」「キャッツの履修状況によって感想が変わる」という事態になっているのはとてもよくわかります。
でもそれは「ノンフィクション映画、映画はつまらんけどモデルになった話はおもろいわ」みたいな「よい題材を選びましたね」という誉めなので、映画を庇う理由にはならないと思います。
舞台版、見に行きたいですね。