ポン・ジュノ監督、アカデミー作品賞の受賞、おめでとうございます!!
裕福と貧困の息もつかせぬ混沌ドタバタ劇、面白かったですね。
でも
でも、
アカデミー賞?
去年、スパイク・リーがあれだけ暴れてた賞ですよ。
手放しで喜んでいいんですか、これ。
1.そもそもアカデミー賞とは
アカデミー賞は授賞式前年の1年間にアメリカ国内の特定地域で公開された作品を対象に選考され、また映画産業全般に関連した業績に対して授与される。
Wikipediaより
アメリカ人、アジアの映画をあんまり見たことないのでは?と思ってしまいました。
とっても面白かったですよ。
それは前提として、貧困層と富裕層、チーム連携、コメディテイスト、いろんなジャンルをごった煮にして、最後は血みどろ大パニック
…こういうのって韓国映画では最近、そこそこ見るような気が…。
普段のポン・ジュノの作風から考えても、かなり「最近そこそこよく見る」韓国映画に近い仕上がりになっていて、「出来がいい」のはともかくですよ
(ノミネートされてる時点でどの映画も出来はいいんですよ)
アカデミー作品賞???
他の作品を差し置いて???
なぜ?????
2.単純に、見る目の問題
私はブラックパンサーが作品賞にノミネートされたときも、疑問でした。
いやまぁMCU信者ですし。あの映画も、よかったけども。
ウインター・ソルジャーがノミネートしなかったのに???
と思いました。
今年のアカデミー賞も、エンドゲームが箸にも棒にもかからなかったのに???
(申し訳程度に視覚効果にノミネートされてましたが)
ブラックパンサーだけがいくつもノミネートされ、賞を獲得したことに、作品の出来ではない部分の評価がなかったと、言い切れるのかどうか?という邪推をしてしまいました。
パラサイトにも思いました。
あんなに丁寧なフォードvsフェラーリが出てきた年に?
完璧なフィクションを描きあげたワンハリが出てきた年に?
なにより、社会的な大ブームを起こしたジョーカーの年に…?
面白かったのは前提としてですよ。
あれらをおさえて、作品賞が
パ ラ サ イ ト…………???
これは邪推で、単純に私の見る目がないのかもしれません。
スパイク・リーは「正当な評価をされてない」と異議を申し立てましたが、ここまでは私たちどちらも、自分の感性からうまれた邪推をしているに過ぎません。
また私は日本人なので、ブラックパンサーがどれだけ黒人に勇気を与えたのかや、韓国映画が視界に入ってきて衝撃を受けたアメリカ人の気持ちはあまりわかりません。
その場合であれば、それはアメリカ人にとっては公平な評価だと思いますし、何より差別問題を抱えていた国としては、そういった作品が表に出られるようになってきているのは非常によい傾向でしょう。
アメリカの賞です。
日本人の私には、その歴史も踏まえて評価基準がわからなくて当然だと思っています。
3.暴れすぎたポリコレ
今年のアカデミー授賞式、ナタリー・ポートマンのガウンには、ノミネートから外された女性監督たちの名前が書かれていました。
参考記事
……ほら、こういう場所でしょ。
これ、もう芸術ではなく、社会運動です。
ただマイノリティの数を増やすゲームをしているだけじゃん。
本当に快挙なの??
よい映画が評価される場ではありません。
「パラサイトが作品として群を抜いていた」とは思えなかった私は、「私の見る目と、アカデミー賞会員の見る目は違ったんだなぁ」という当たり前の結論に、たどり着けません。
理想の評価基準を、こうやってイヤほど見るので。
黒人が少ない、女性が少ない。アジア人も受賞してほしい。作った者の属性で受賞を望む声を聞いていたので。
こんな場でアジア人が受賞しても、「あぁ忖度ですね」としか思えませんでした。
むしろあなたたち、本当にこの映画の良さ、わかってんの??
「アジア人が作ったから、いい!」とか言ってたらブチ回すぞ怒るぞ
4.アジア人はアカデミー賞をとる必要がない
もし仮にパラサイト以外が作品賞をとってたとして、「やはり白人至上主義だった!」「オスカーには差別がまだ残っている!」みたいな意見が一切でないのなら、喜びますよ私も。この件を。
素敵な世の中になったなぁ、と思います。
でも「こっちの作品のほうが相応しいのに!」ではなく、「白人の数が多い」「女性の数が少ない」という文句が出る時代です。
ノミネート作品がどれも素晴らしいのなんか、私でも見てわかります。
そのなかで一歩抜きん出て評価されるのが、どこなのか?
「監督がアジア人」という評価かも?
そう思わせる要素が残るのは、映画を見る人間として、本当につまらなく感じます。
これもまた邪推ですが、年々視聴率が下がり、今年のアカデミー賞の視聴率が史上最低になった理由、社会運動だからじゃないのかな…
「多様性に配慮できるアメリカです」アピールにされるために持ち上げられて、「アジア人快挙!!」とか喜んでるとしたら、それってすごく、滑稽じゃないですか。
パラサイトねぇ、確かに面白いんですよ。
だからこそ、パラサイトはアメリカの、こんな忖度のある(かもしれない)賞なんか、とる必要ないと思います。
アジアで勝手に賞作ったらええねん。翔んで埼玉が作品賞とる日本アカデミー賞はうんち
アカデミー賞、「アメリカの特定地域で上映された映画」でしょ。
差別がどうとか以前に、アジアの映画がわざわざ遠方の土俵に乗ってやる必要、ある?
世界的に権威ある賞にしては、あまりにアメリカ社会を中心とした賞レース過ぎる。人種差別がどうのって、そもそも全員黄色のぼくらアジア人にほとんど関係ないじゃないですか。
振り回されるくらいなら、こちらから見捨ててやったらいいだけのような気がします。
5.差別されて来た側の忍耐が要求されている
昨年、ファレリー監督が作品賞を受賞したときは、私は作品としてリー監督よりもとるべきところがとったな、と納得がいきました。
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でも今年はそう思えなかった。リー監督もきっと、こんな気持ちだったんでしょう。
「作品の外での評価があるんじゃないか?」
そう疑わせてしまった時点で、賞なんておしまいですね。
リー監督ごめんね…わかるよ…、と思うと共に、結局は去年と同じ結論に到達しました。
時代が変わり、よくなっていくというのは、本当に少しずつなんだと思います。
変化の途中で虐げられた来た側が、一気に声をあげすぎると嫌悪を生む。
社会に自然になじんでいかず、どんなによくても忖度を生む。
なんでや!!
今まで差別されてきたのはこっちや!!
わかるんですが…。
わかるんですが、目指す場所は誰もがニュートラルに平等に生きられる世界なので、一歩一歩、お互いに歩み寄らなければたどり着けません。
人種として主張を続けている限り、「人種の差」は消えません。つまり、虐げられてきた側の方に忍耐を強いるということです。
「グリーンブック」、まだまだ白人目線かもしれませんよ。でもこれは確実に、白人からの歩み寄りです。進歩です。
小さな進歩も進歩と認めて、これからの未来を辛抱強く期待すること。
それができなかったために、「パラサイトの受賞は忖度では?」という疑問を抱かざるを得なくしてしまったこと。快挙を素直に喜べない状況を作り出したこと。
そんでスパイク・リーはさ、オスカー逃して、堂々と言えるわけじゃん。
「差別があったんじゃないの?」って。
でも、タラちゃん達は絶対に、絶対に言えないんですよ。このご時世。
「忖度があったんじゃないの?」なんてことは。
今回のアカデミー賞を受けて、ポリコレという手法が生み出す欠点を私は強く感じました。
ポン・ジュノは悪くないからね!
おめでとうね!
根拠のない邪推なんて無視して、喜んでていいからね。
個人的にはポン・ジュノ映画は、浮世離れした “らしい” 映画のほうが好きです。