「死ぬなら一人で死ね」の言葉は、アーサーをジョーカーにする -『ジョーカー(2019)』

ジョーカーを見て、私は川崎・登戸の通り魔殺人を思い出しました。

当時「死ぬなら一人で死ね」という言葉がネットを飛び交い、「言い過ぎなのでは?」と言う人は「被害者より加害者の気持ちに寄り添い、加害者を擁護するサイコパス」と言われました。

あのね、擁護してません。

私は「何があっても、殺人が許される人間は居ない」と思ってます。
でも、「何があっても、赤の他人に死ねと言える人間も居ない」とも思っています。

「何があっても殺人はいけない」と思える人は、殺人をしない人です。

殺人をしない人には、「何があってもやってはいけないこと」をやる気持ちが、わからない。

つまり、そもそも「何があっても」には、「殺人者の動機」は含まれないのです。

「このくらいまで苦しければ、私でも人を殺すかも」と納得しなければ、そしてきっと、それらしい動機があってもなお人を殺さない人がほとんどでしょう。
「何があっても」という倫理を持てているからです。

この映画は、私たち「殺人者でないもの」を納得させようとしていません。
「おれもこうなるかもしれない」「おれならこんなことでこうはならない」
実は、どちらの意見も同じです。

ジョーカーを見て「もっと苦しい人はいっぱいいる」「この程度で人殺し?」「悲惨さが足りない」と思った人も、わからなくていいんですよ。

あなたは、どんなに苦しくても人を殺さないから。

私たちは「どんな理由があっても殺人はいけない」と思っているのに、「殺人には何か理由があるはずだ」と思っている。

自分の知る倫理から外れた存在を、自分の倫理で理解しようとしているのです。

彼のことを、
「あれはサイコパスではない」「誰でもなりうるものの最終形態」
と言ってる人が居ましたが、そうでしょうか。

映画を見ながら「おれも一歩間違えていれば…」と思うような人は、きっと一歩間違っても、ジョーカーを称えながらピエロのマスクでデモをしているでしょう。

アーサーは、お笑いの才能には恵まれなかったが、殺人鬼の才能があった。
一歩間違える素質があった。
ほとんどの私たちには倫理があり、彼の才能はありません。

アーサーは、ずっと「コメディアンになりたい」と言っていました。
倫理を外れようとする意思は、彼にはなかった。
彼は、まともな道の上を生きていこうとしていました。

人を殺す前、彼は社会の中に居て、かろうじてアーサーだったはずです。

殺人鬼の才能があっても、人を殺すまでは加害者ではない。
まだ、私たちと同じものです。

彼を落伍者として「ジョーカー」というレッテルを貼ったのは、誰だったでしょうか?

何度も言いますが、私は殺人者を擁護していません。
加害者には寄り添っていません。

やったことはやったこと。
どんな事情があっても、ジョーカーになったアーサーは殺人鬼です。

川崎の事件のとき、人々は誰に怒っていたでしょうか。全く会ったことのない被害者のためでしょうか。

この先、罪のない子どもが被害にあったら?自分の家族が被害に遭ったら?
そんなことになったら許せないから、被害者に自分の気持ちを重ねて怒っていたのではないですか?

でも、未来で起こる事件の加害者は、川崎の加害者ではありません。
犯人が死んでいる以上、その怒りは、やり場のない怒りのはずです。

「死ぬなら」の仮定を今後選べるのは、生きている人間です。
この言葉は、未来の加害者にも向いていないと言えるでしょうか。

未来の事件に関しては、現時点で誰も、被害者でも加害者でもない。
すべての登場人物が、今はまだ他人です。

フォロワーが言ってました。

「あの犯人、結局不幸な生い立ちとか出てきたんだろうか。もう皆忘れてるけど」

今、川崎の事件の話をしている人はもうほとんど居ません。

一時知りえた他人のニュースに怒って、忘れる。
それは、お笑い番組を見ながら笑うことと変わりません。他人のニュースは、自分の目に見えたときだけの感情のエンタメです。

私がこの映画を見て怖かったもの。
それは無関心の可視化です。

アーサーは知ってしまった。
世間から転がり出そうな人間と、転がり出た人間に対する世間の反応を。

世間の人間は、他人の不幸にまで構う余裕はありません。
死ぬか殺すかというところまで来ていてなお、誰からも興味を持たれないまま「理由が何であろうと人を殺すな」とだけ言われる。

それは瀬戸際の人間に、見えないままで死んでくれと願う分断の言葉です。

被害者の気持ちになれる人たちがこんなにいるのに、加害者の気持ちで聞いている人が、一人も居ないと言えるでしょうか。

三度目、まだまだ言いますが、ジョーカーのことは全く擁護してません。
不幸な生い立ちでも、たとえ快楽殺人でも、動機は一切関係ない。

でも、アーサーは。
瀬戸際のアーサーは、まだ。
まだ、分断され続けただけのコメディアン志望なのです。

彼の背中を押す最後の一言に、なるかもしれない。ならないかもしれない。わからない。言っても言わなくても、どうせ彼はなるかもしれない。
または「そうだな」と納得して、本当にひっそり一人で死ぬかもしれない。

でもみんなが言葉にすれば、それは世論になる。
分断され続けたコメディアン志望が、どこかで聞いている可能性も、あるかもしれないということです。

責任を取れなんてことは言いませんが、
「私の発言が仮に誰かの生死を左右しても、私はその人に言ったワケじゃないし、その人が勝手にやっただけで、一切関係ない」と平気でいられるのでしょうか?

私は、誰に届くかもわからない「死ね」の言葉を、一時の感情で使っていいと思えないのです。

笑わせる才能はないが、人殺しの才能はある。
彼は、エンタメを作れるのです。
人の感情を動かして、怒らせ、悲しませ、熱狂させることが出来る。

世間から必要とされなくても、人々の感情を動かせるんじゃないか。
おめでとう、よくぞたどり着いた。

自力では辿り着けなかった場所。
みんなが社会から締め出したおかげで、アーサーの前にジョーカーの道が開けた。

誰か一人でもアーサーをひき止めていたら?アーサーはきっと不幸なままで、アーサーであるために努力をし続けたことでしょう。

ジョーカーの資質を持った者は、どこかには存在するかもしれない。
そして今は 、まだ殺人のことなんて考えたこともないまま、社会の中で生きていこうとしているかもしれない。

社会から脱落しかけた人間を追い詰めれば、そこからジョーカーが炙り出され、完成する確率は上がっていく。

何かのきっかけで彼の枷が外れたとき、社会が彼に未練がないことを、彼は知っているでしょう。

私たちが本当に気にすべきなのは、このジョーカーという犯罪者の妄想物語を、現実にしてしまうことではないのだろうか。

この映画をこれだけヒットさせて、ジョーカーの人生をこれだけの人が見て、それなのに、あろうことかそんな私たちがトーマス・ウェインとなり、ジョーカーを産み出してしまう。

それこそが、この映画が描く喜劇の完成なのかもしれないと思います。

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