シャーリーとトニーが越えたのは、人種の壁ではない -『グリーンブック(2018)』

オスカー受賞おめでとうございます。
ミーハー心で見に行きましたが、脳筋赤ちゃんと知的宇宙人のハチャメチャ異文化交流で、非常に楽しい映画でした。

他人のレビューとのあいだに解釈違いがあったので、それらに対する私の意見を言っていきたいと思います。

予定調和。肌の色という要素を除けば上流階級であるシャーリーが相手なら、黒人への偏見が薄れていくのは当然のことである。

引用元:元記事を見失った

そもそも、トニーは上流階級ではありません。

粗野な性格のトニーが、ウマの合わない上品な男と一緒に居て好感度が上がるでしょうか?「当然のこと」とは考えにくいと思います。

上流階級であることはシャーリーの持つ要素ではあるが、彼のすべてではありません
黒人であることも彼の要素であり、彼のすべてではないように。

シャーリーは白人からずっと差別を受け続けながらも、自ら黒人差別と向き合う道を選び続けて生きています。
それなのに「偏見が薄れたとすれば、その理由は彼が上流階級だったから」とするのは、彼の生き方を無視して「黒人だから」と断定することと同じ行いなのではないでしょうか?

だってシャーリーが白人で生まれてたとして、廊下でうんこする?

逆にトニーの行動を、「気楽に生きて来られた鈍感な白人だから」と断定することも、同じことではないかと思います。

今までのスペックと環境が何であろうとも、それを踏まえて本人自身が選択を繰り返して生きている。

…という、個人の規模に落とし込めない状態が、「差別」なんじゃないの?

日本人は白人側に立って見てるけど、向こうでは差別される側だということを忘れずに。

引用元:わからない

この映画見た!?

グリーンブックなんてなくなればいいのに、という話では!!??
自分が差別される側だと忘れずに、ずっと耐えていたシャーリーが、どういう扱いを受けていたのか見なかったのか?

差別される側であることを肝に銘じていたことで、何かが好転したのか?

「される側」であることを認識して寛容になると、「する側」の「しやすさ」が増すだけだぞ。

物語が進むにつれて、シャーリーは「黒人」で「ゲイ」で「上流階級」という、トリプルマイノリティであることに苦悩していることがわかる。
この頃には既に友情が生まれてトニーはシャーリーをリスペクトするようになっているので、「上流階級のあんたは黒人だけど黒人でない。俺の方がよっぽど黒人に近い」とバイアスのない率直な意見を言えるようになっている。
これを言われたシャーリーは、自分がどの社会グループにも属せないという事実を目の前に突き付けられて、抑えていた気持ちが爆発、本音を吐露するわけです。

引用元:ごめんな~

完全に解釈違い。

トニーは自分がお上品でないことを軽々しく「俺は黒人に近い」と言いますが、彼は白人です。
「黒人が受ける理不尽な差別」を受けたことは、一度もありません。

トニーは優位な立場である白人として生まれて、都合のいいときだけ黒人を名乗ることもできるけれど、黒人として生まれたものは、黒人以外の扱いを選ぶことはできません。

シャーリーは、「自分がトニーより黒人らしくないため、黒人の扱いさえ受けられない」ことを「何者でもない」と言ったワケではなく、「どれだけ黒人らしくない行いをしても、永遠に黒人の扱いを受け続ける」ことを「何者でもない」と言ってたんだよ。 

この世界では、何者にもなれないんだよ。彼は黒人だから。 

「全米を代表するピアニストになっても白人の世界に入れてもらえず、黒人の世界からも隔絶されているシャーリーだが、トニーに触発されて、ついに黒人が集まるバーで演奏をして黒人に受け入れてもらったり、最後にはトニーの家族親戚一同に会いに行ったりと、小さいながらも大きなステップを踏むのだった。

引用元:どこかわかったら書きます

この映画は、二人が人種間に存在する壁を乗り越える映画ではありません。

シャーリーは今まで、「黒人として」白人からの仕打ちに耐え続けていたけれど、トニーに触発されて「自分自身のために」耐えることをやめた。

彼は「白人のために」演奏することをやめて「黒人のために」演奏したワケではなく、「自分が演奏したくない場所では」演奏せず、「自分が演奏したい場所で」演奏をすることにした。

シャーリーは、トニーという男と行動することで、彼が人に囲まれていたのは白人だからではなく、「寂しいと思ったときに自ら先手を打って行動する」人だからだということを知った。
自分が一人だったのは、黒人だからではなく、先手を打ってなかったからだった。 

だから、クリスマスに彼は「耐えたり」「避けたり」するいつもの自分から踏み出して、先手を打ってトニーの家に来た。

彼は最後に「黒人だけど白人の家族に会いに行く」という抵抗を越えたのではなく、 「私のような黒人が一人なのは黒人だから仕方ない」という、自分が引いた人種での思い込みのラインを越えたのです。

彼らは出会った段階では、互いに関する情報を人種くらいしか持っていなかった。

「シャーリーはフライドチキンを食べたことがない」「トニーは手紙を書くのが下手くそ」
そういう互いの「人種」以外の情報をどんどん知っていくことで、互いの全体の情報のなかでの「人種」の情報の比率が、相対的に小さくなっていったんです。

ぼくらだって、あんまりまだ仲良くない人は見た目の特徴や先入観で覚えてたりするでしょ。

二人がどれだけ変化しても、世界のなかでは人種によって、住む世界が大きく違います。
「白人だから」「黒人だから」存在する問題は山積みで、同じように生きていくことはこの先もできません。

でも、詳細はフィクションだったとしても、この時代に、二人は本当に仲良しだったんですよね?

私には、大事なことは「知ること」だと思えました。
山積みの問題のなかで、この二人を「特例」として切り離していいんだろうか。もしかしたら大きな問題に立ち向かうための、小さな突破口かも知れない。

そんな希望を感じさせる映画でした。

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